信越トレイルクラブ

信越トレイル・ストーリーズStories

加藤則芳さん

文:TRAILS / 写真:信越トレイルクラブ、TRAILS / 監修:TRAILS

#2 ロングトレイルのつくり方

~信越トレイルの誕生秘話~

信越トレイルという、日本における初の本格的ロングトレイルは、どのようにしてつくられたのだろうか。信越トレイル・ストーリーズ#02では、その誕生のヒストリーにせまるロングレポートをお届けしたい。

信越トレイル誕生のキーマンの一人としてよく語られるのは、日本にロングトレイルを紹介した第一人者である加藤則芳氏である。しかし、それだけでは十分ではない。実は信越トレイルの誕生までには、地元の人々の発案と努力による、日本初の取り組みが多くなされてきた。

信越トレイルの成功を語る上での5つのキーワードがある。それは以下の内容である。

  • 行政主導だけでない、官民連携による運営体制の確立
  • ボランティアベースの広域の維持管理体制の構築
  • 「里山」という地域の自然資源の再発見(グリーン・ツーリズムのさきがけ)
  • ロングトレイルという新しいものに対する地元住民の理解促進
  • 強いフィロソフィーと求心力を持ったリーダーの存在

これらを信越トレイルはどのように実現し、そして継続しつづけてきたのか。信越トレイルクラブ事務局・なべくら高原・森の家へのインタビューを通して、その誕生ヒストリーをひもといていく。

信越トレイル・ストーリーズ

信越トレイルは、いかにして人々を魅了し、ロングトレイルの旅へと駆り立てるのか。加藤則芳氏が込めた理念、誕生のヒストリー、トレイルを支える地域の人々。それらのなかにある「他にはない何か」を再発見すべく、長年、信越トレイルを取材してきた「TRAILS」(※)の編集チームが監修・制作した記事シリーズ。
※トレイル・カルチャー・ウェブマガジン「TRAILS」(https://thetrailsmag.com

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本記事は2015年に行なわれた当時のNPO法人信越トレイルクラブ事務局長兼なべくら高原・森の家支配人の高野賢一氏へのインタビューをもとに構成されています。

日本にロングトレイルを紹介した第一人者との出会い

作家・バックパッカーの加藤則芳氏は、信越トレイルの構想段階から深くかかわっていた。いったいどんな縁が両者を結びつけたのだろうか。その出会いは、信越トレイル80km(斑尾山〜天水山)までが開通した2008年から、さかのぼること8年前のことであった。

「『ヒッピーみたいな男が森の家にやってきた』と当時の支配人の木村が言っていました(笑)。実は当時(2000年)、郷土の宝であるブナ林を守る活動を始めたのですが、その活動が『Outdoor』(山と溪谷社)に取り上げられまして。その記事を見て加藤さんが訪ねてきてくれたのです。それが最初の出会いですね」

記事はモノクロの目立たないベタ記事だったが、自然保護を唱えつづけてきた加藤氏は強い関心を持ったようだ。ただその時は、名刺交換をして軽く話をした程度で終わったという。

「ちょうどその頃、国交省(当時は建設省)の地域連携に関する調査事業(北陸地域の地域づくり戦略事業)がスタートして、長野県と新潟県で何かできないかという話が、当時飯山市長だった小山邦武(こやまくにたけ)さんに持ちかけられたんです。

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故・加藤則芳氏。ロングトレイルを日本の文化の中に根付かせるべく尽力した。『ジョン・ミューア・トレイルを行く』『メインの森を目指してーアパラチアン・トレイル3500㎞を歩く』(いずれも平凡社)など、著書多数。

他のエリアでは連携軸として河川や鉃道、道路が一般的でしたが、小山さんは県境の関田山脈を利用したトレッキングルートを提案し、すぐに関係団体や山脈に隣接する市町村を巻き込んだ委員会が立ち上がりました。信越トレイルという名前こそありませんでしたが、これが最初の一歩でした」

そこでロングトレイルに精通した加藤氏に声をかけ、一緒に信越トレイルをつくっていくことになったのだ。自然保護の哲学を持ち、アメリカのロングトレイルの仕組みや運営方法にも詳しい彼が、信越トレイル立役者のひとりであることは言うまでもない。

しかしここで重要なのは、地域の自然資源の価値を地元の人が再発見し、そこからあたらしいものをつくろうとする自発的な動きがすでにあったということだ。むしろ加藤氏の側も、日本においてロングトレイルを具現化できる場所はないかと探していたのだった。

キーパーソンは、地元の裏山(関田山脈)の価値を
早くに再発見した、飯山市長だった

「そもそも、なぜ小山さんに調査事業の話が来たのか。そこがポイントでもあります。彼は1990~2002年の12年間にわたって飯山市長を務めていたのですが、それ以前は30年ほど飯山にある実験農場で酪農経営をしていたんです。その中で、不登校の子どもを受け入れたりもしながら、誰よりも自然の中で生活することの大切さを実感していました。市長になってからもそのスタンスは変わらず、なんとかして裏山(関田山脈)を有効活用できないかと考えていました。

ここは豪雪地帯ですから、この雪というのはスキー場関係者以外の方々には邪魔者と思われることもありました。でも彼はそう考えなかった。雪は資源であり、プライスレス。たとえ10億円払ったとしても決して手に入れることはできないものだと。この地域ならではの恵みの素晴らしさや価値を粘り強く市民に問いかけながら、景観を大事にしたり資源を大切にする取り組みを始めたのです」

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元飯山市長の小山邦武氏(信越トレイルクラブ・代表理事も務めた)。飯山の自然に魅せられ、それを守り、活かすさまざまな取り組みを行なった。信頼は厚く、地元の人からは「総理大臣になったほうがいい」と言われていたほど。

そして小山氏が市長に当選して3年後の1993年に、農水省がグリーン・ツーリズム(農山漁村地域において自然、文化、人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動)の促進を本格化させ、モデル地区を募った際、まっさきに手を挙げたのが飯山市だった。

「飯山市では、グリーン・ツーリズムという言葉が用いられる前から似たようなことはやっていたんです。学習塾の夏合宿とか、高校生や大学生が夏の間勉強しにくるとか。グリーン・ツーリズムとしては、農村に滞在しながら田んぼや畑、自然に触れるという取り組みをメインに行なっていました」

農業に関する研究もしていた小山氏は、「農業は、生命の営みを、その死を含めて見せてくれる。こうしたことを通して、人間の謙虚さ、自然に対する畏敬の念が生まれてくる」という考えを持ち、農業や自然を通した教育の力にも強い信念があった。小山氏にとっては、グリーン・ツーリズムは、単に地域活性というだけでなく、都市の子どもたちの生きる力を育てる取り組みでもあった。

都市農山村交流における拠点『なべくら高原・森の家』を
つくった先見の明

そして、よりしっかり活動していくためにも都市農山村交流の拠点が必要だと考え、鍋倉山の麓に『なべくら高原・森の家』をつくろうとした。しかし、議会で発案したものの猛反対を受ける。議員の多くが反対の手を挙げたのだ。なぜなのか。

「なんで町から遠いそんな辺鄙な所につくるのかと。当時、すでに新幹線の駅ができることは決まっていたこともあり、お金は駅の近くにある町の中心部に使うべきだという意見でした。

地元の人からすれば、こんなただの裏山を見ても価値があるとは思えないのは当然のことです。施設をつくって体験の拠点にすることの意義は見えづらいでしょう。でも、外から来る人にとっては絶対必要なんです。その必要性や重要性を、小山さんは一人ひとりに熱く語り、時間をかけて納得してもらったんです」

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グリーン・ツーリズムの拠点施設『なべくら高原・森の家』のセンターハウス。6ヘクタールの敷地内にさまざまな施設がある。

こうして1997年に、後に信越トレイルのビジターセンターともなる『なべくら高原・森の家』は誕生した。しかし、施設をつくり体験型サービスを提供するだけでは、この施設の意義が伝わらないと小山氏たちは気づいていた。

そこで公益的な活動が必要ではないかと考え、2000年、当時衰弱しつつあった地元の巨木ブナの保全を目的に『いいやまブナの森倶楽部』を立ち上げた。その方針として、ブナの森に人を入れないようにするのではなく、自然にダメージを与えないようなルールを設けることで、自然のなかを歩いてもらうことに主眼に置いた。例えば、巨木の前だけはロープを張ったが、そこまでのアプローチはちゃんと道をつくって歩けるようにする。見せながら守るという取り組みを始めたのである。そしてこの遊歩道や観察道を、森の家が中心となってつくっていった。

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信越トレイルのある関田山脈には、原生に近いブナの森が多く残っている。

そもそもこの地域は、ブナの森の伐採計画があったものの地元市民の意向でそれを中止させた事例があった。バブル期には鍋倉山をスキー場として整備することを目的に大規模リゾート開発計画が打ち出されたが、それも最終的には当時飯山市長だった小山氏が計画を中止させていた。こうして地元が愛する原生に近いブナ林は守られてきたのである。

以来、小山氏は「100年後の未来に素晴らしいブナの森を残したい」という想いで、活動を牽引しつづけてきたのだ。

「信越トレイルの考え方は、イコール森の家の考え方なんです」と高野さんが語る。なべくら高原・森の家という施設の存在、考え方こそが、信越トレイルのベースになっている。そして小山氏の想いと行動力、グリーン・ツーリズムをはじめ自然を活用した地域振興の取り組みがあったからこそ、信越トレイルへと発展していったのである。

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